おっさんとバイト
2020年
年が明けた。
去年2020年は本当に存在していたのだろうかと不安に思うほど、なんとも言えないような年だったように感じる。
ただ、振り返ると何も残っていないわけではない。
去年は採用試験に中学、小学校の教育実習、他にも音楽制作やストリートで初めてスケボーをしたことなど、多くのことに取り組み、継続する大変さを学んだ。
口に出して何かを成し遂げるということはとても難しい。
去年、新型コロナウイルスという未知のウイルスが流行して、自分を見つめ直す時間が出来た。その結果として、俺が今まで出来なかったことに挑戦することが出来たし、今までの人生では考えられなかった生活の変化が図らずとも起きた。
しかし、口にして何かを成し遂げたいだとか、こう変わりたいということは簡単に言えたが、実際やってみるとそれはとても難しく、続けることは相当の根気がいるということをまざまざと実感した。
まだまだ先の見えない現状で、不安もあると思うし、その中で自分にしか出来ない武器や個性を強めていくことがこれから必要になるだろう。
今年2021年どんな年になるかはまだわからない。ただ平凡に日々を過ごすだけにはしたくない。
去年、一年を準備期間だと考えた時に、去年蓄えた知識や技術を今年は出来る限り活かせるようにしていきたい。
そして、人脈を増やし、自分のコミュニティを作って何か大きなことが次の年に出来るようにステップアップして、新しい一年を迎えたいと思う。
mid90's
その関係性もあって、より物語は複雑になる。レイはプロになりたい気持ちでスケボーをやっているが、ファックシットは毎日を楽しく生きたいというどんどんその考えの違いから2人の間に溝ができていく。
俺はファックシットみたいな人間もかっこいいと思うし、レイもかっこいいと思う。
だから、どちらの気持ちもわかる。
レイは黒人で家にも恵まれてない。だから、這い上がるためにはスケボーでプロになるしかない。ファックシットは家には恵まれているが、毎日を楽しく過ごしたい。それに、その考えになったのも、スケボーを教えたレイの方が上手くなってしまったのもあると思う。
結局何が言いたいかと言うと、
スケボーはスポーツでも遊びでもない。
その人のライフスタイルであり、生き様そのものであるということがわかった作品だったと思う。
ghost
夏のスクーリングがコロナでオンラインに変わって、電車賃は浮いた。
けど、だるいこともめっちゃくちゃある。友達に会えないし、スクーリング終わりに飲みにもいけない。
明日の講義の準備で講義プリントをコピーしにコンビニに行った。
5.6枚なら100円くらいだろうと思って千円だけ持ってサンダルで歩いてコンビニへ行った。
結論から言うと、結果的にプリントに400円もかかってしまった。
というのも、俺が2枚目のプリントにかかろうとしている時にコンビニに入ってきた美女がいた。めちゃくちゃ綺麗な人でマジでモデルかと思った。そしたら遅れて後ろからマジ大学生イキリインキャデブみたいな彼氏が来て店内を彷徨き出した。
最初は気にもしていなかった。が、横を通る時にイヤホン越しに女の人の笑い声が微かに聞こえるので、なんとなく、気になってイヤホンを外した。
俺が最後のプリントを刷る時にはもうカップルは去っていた。
俺は何も気にしていなかった。そう思って最後のプリントを刷る画面に来た時に手を止めてしまった。カップルが俺の前の窓越しでキスをし始めたからだ。
俺は思わず10秒くらい見入ってしまった。男と目が合って、男がコンビニに戻ってきた。何をされるのかとびくついていたら、俺の後ろを通り過ぎてコンドームを買って小走りで女の後ろを追いかけていった。
そうこうしているうちにコピーは終わった。金額は400円かかっていた。
間違えて、カラーコピーで印刷してしまっていた。
最初に千円入れてしまったのがいけなかったのか、カップルのせいなのかはわからない。というか、間違いなくカップルのせいだ、そうに違いない。
俺はコンビニをぐるっと回り、雑誌のコーナーを見て、ジャンプがなかったので何も買わずにコンビニを出た。
俺がコンビニを出た瞬間から、月が雲に隠れて少しだけ夜がさらに深くなった気がした。
2020.0718
今日は土曜日、本当に2週間ぶりくらいに外は晴れて、学童では久々に運動場で思い切り走った。
子どもたちのはしゃぎ方は太陽の輝きにも負けてなかった。
教採が3分の1くらい終わってなんとなく、スイッチが入ってきた。
友達と勉強するのは楽しい、こんな充実した日々を過ごせているのはとても良いことだと思うし、毎日が楽しく思う。
そんな日常は当たり前に来るが、一方で悲しいニュースが今日突然起きた。
今朝俳優の三浦春馬さんが自宅で亡くなっているのが発見された。
これを知ったのは勤務中に、他の先生からLINEニュースを見せられて知った。突然のことで正直とても驚いたし、その時は悲しみよりも驚きの方が強かった。
家に帰って、そういやと思い、三浦春馬のことをネットで検索して、死因などを調べてみた。自殺だった。
子どもの頃からドラマで見ていて、真っ直ぐな心を持つ人なんだろうなと、会ったことはないが、そう思えるような演技や普段の表情を見ていて、すごく好感を持てる俳優さんだった。それだけに、少し他人事ではない気がしたし、本当に涙が出そうになった。
今になって考えると、最近のニュースでは暗いニュースが多くて、心を痛めることも多かったのだろうなと思いながら、なんとなく、三浦春馬という人物は若くして亡くなる運命だったのかもしれないなと納得できる部分もある。
独特の繊細さが、彼の魅力であり、弱点だったのかもしれない。
結局のところ、SNSのトラブルが学校教育で取り上げられることも多くなったが、大人の社会でもこれだけ問題になっている時点で、特殊な時代というか、昔の日本では考えられないような時代なんだと思う。
と同時に、自分で死ぬことはダメなことという概念自体も少しずつ変わっている気がする。
何が正しいとか誰が正義とかそう言うこともSNSで呟くことも考え直す必要があると俺は思う。
自分でもなんで思いついたのかわからないが、夜風に当たりたくて、夜になってからチャリでいつもの高台まで行った。
行くまでの道のりは坂だし、暗くて不気味な住宅街を通るし、団地の中にあるから、なんとなく行ってもすぐに降りてくる。けど、なんか考え事をする時や物事の転換期ではそこに行くようにしている。
そこに行って、ひとり座り込んで寝屋川市をしばらく眺めてたら、なんとなく、今はこんなことをしてる場合じゃないと言う気持ちになった。全速力で来た道をくだっていったその時に、イヤホンから流れる曲は風の音が混じって新しい音楽へと昇華している気がした。とても清々しい気分になった。
そこの時に、苦しくなっても好きな音楽と美味い飯を食えば俺は大丈夫だっていう、俺なりの答えが出た。
いい一日だった。
面接練習
もう七夕は終わり、すっかり夏になってしまった。
コロナウイルスが社会を混乱に導いている2020年ももう半分を過ぎてしまっている。
今日は教員採用試験の一次結果発表だった。自己採点で5割しかなく、100%落ちたと思っていたので、公開予定時間の10時よりも1時間遅れた11時に友達に確認するよう急かされ、しぶしぶ見た。
そこに受験番号の100415番はあった。が、喜びよりはむしろ驚きの方が勝った。
正直、こんな感じなんだというのが本音であり、1日経った今でも実感はない。
まぁ、でもこれは、3つの砦がある城の牙城を一つ崩しただけでもあり、牙城の一つを崩せたんだということでもある。
家族や友人に報告した。
みんな喜んでくれた。
でも、次の面接の練習を全くしてない。受かると思ってなかったから。しかも、不安なことに今日大学でコロナの感染者が出て、学校には当分の間行けなくなってしまったので、練習をしてくれる担当の先生にも会えない。
自主的にするつもりでいた時にそれを言うと、練習の相手をしてくれる友達がいた。
同じく教員を目指す、中学からの親友のタカティンだ。
タカティンが夜練習に誘ってくれて、1時間半もの間みっちり俺のための個人練習をしてくれた。
タカティンとは中学の時から喧嘩もめちゃくちゃしたし、何回も遊んだ。
遊びすぎてモノマネができるくらい仲がいいと思っている。
そんなタカティンがこうして同じ目標のために勉強をしてくれて、助けてくれることがすごく嬉しかった。
帰り道、こんなことを考えていた。
「俺が教師になった時には今日のことを生徒に話そう。アクティブラーニングは生徒の頭をアクティブにするとか、十人十色とか、そんなことだけじゃなくて、今日のこの出来事を話そう。」
マジで教師受かろうな!
ちっちゃいばあちゃんの三回忌
先週末、ひぃばあちゃんの三回忌があった。
ひぃばあちゃんが亡くなってからもう2年が経つ。あの年は僕の周りの色々なことが変化したり、自分自身の中でも成長したし、ある意味転換期にもなった年だった。
僕は小さい頃からひぃおばあちゃん子だったのもあって、おばあちゃん家に行ったら一階のひぃおばあちゃんの部屋に行くのがお決まりだった。
僕の知ってるひぃばあちゃんは、白髪頭でしわくちゃな顔をした背の小さいおばあちゃんであり、僕はひぃばあちゃんのことを「ちっちゃいばあちゃん」と呼んでいた。
僕の前ではめちゃくちゃ優しくて、どことなく仏のような雰囲気が生前からあった。
だから、亡くなった今でも仏壇の遺影を見ると優しかったちっちゃいばあちゃんが僕のことを見守ってくれてるように思えて何故か1階の部屋にいると安心する。
そんなおばあちゃんも昔はとても苦労したらしい。「昔の人はみんな苦労した」みたいな話はよく聞くが、ひぃおばあちゃんも例外ではなく、若い頃には家族のためにとてもしんどい思いもしながらも身体を張ってお金を稼いでいたみたいだ。
家族のことを支えてきた一家の柱だったちっちゃいばあちゃんの法事の時にはたくさんの人が僕の家に集結する。
それだけみんなに慕われていた証拠なんだと思うし、曾孫としても嬉しいことだと思う。
とは言え、久しぶりにあう親戚の人と挨拶をするのはちょっと緊張する。
あんなに小さかった親戚の男の子が今年から中学生になっていて、なんの部活に入ろうか、コロナ休みが長かったせいで友達が出来るか心配だみたいなことを言っていて、時代の流れを僕なりに感じた。
僕も就活のことを聞かれた。
教師になるという夢は昔から言っているのでみんなに、こんな時期で大変やな、と慰められた。
僕も、今年は無理そうやけど諦めずに頑張るわと、言っといた。
本当のことを言ったのに、何故か心の中で罪悪感があった。親戚には早く帰って欲しいと願った。
バイトを言い訳に早めに席を外した。
自分の部屋に入ってベースの練習を小一時間してからその日はバイトに行った。
少し大きめに音を鳴らして。